今日は予定がない。
これって時間を無駄にしてしまっていることなのだろうか。
ここ数年、年を取ったからか、仕事を長く集中してできなくなった。
もともと集中力が長続きしない質であるので、歳のせいばかりにはできないことは自覚している。
体力の衰えと言いたいところだが、体力も二十代や三十代の頃よりある。煙草を止め、運動を始めたからだ。ただし、集中力を発揮するための体力は衰えているのではないか、と思う。
スケジュール帳というものを持たなくなった。
それはスマホがあるし、Googleカレンダーがあるからで、わざわざ紙の手帳を持ち歩く必要がなくなったから。しばらく「ほぼ日手帳」という紙の手帳も買っていたが、すべてコンピュータで事足りると判断して数年前から買わなくなった。外出時の持ち物も減る。紙の手帳は結局のところ、日記や日誌としての役割を果たしてきた。予定表に予定がびっしり、という状態は三十代のころまでだった。四十代になり、少しずつ仕事の仕方も遊び方も変化してきた。予定をなるべく入れないように努力してきたのである。
三十代のころは、予定表の空白にどんどん予定を放り込んでいたし、週末にも必ず予定を入れていた。小学生のころの放課後もそうだった。日曜日は空手、月曜日は習字、火曜日は空手、水曜日は休み、木曜日はピアノ、金曜日は塾、土曜日は休み。こんな感じだった。もちろん、忙しい、とは一度も感じたことはなく、そんなものだ、と思っていた。いろいろ習い事をさせてもらったおかげで、今がある。興味のあることもこの頃から変わっていないように思われる。
道着を着てブラジリアン柔術をやっているし、ギターを弾いて歌を歌っている。書道は大人になってからまた少し習ったけれど、先生が亡くなってしまってやめた。茶の湯をやっているので、床に掛かった墨跡を見るときに役立っている。母親が考えていたような偏差値の高い学校へは行けなかったが、ただでさえサボりの性格ゆえ、無理にでも塾に通って勉強をしたことは良かったと思う。落ちこぼれを最小限に食い止めることができた。
年齢の話ついでに。
五十を過ぎるとさすがに残り時間のことを考えざるを得ない。失われるのは「現在のこの瞬間」だけであり、それは老若男女において変わらない。そんなことは理屈で分かっているが、あと何年、あと何回、というようなことを考えることが増える。人間皆そうなのだろうか。
仕事で忙しい時、「ああ、のんびりしたいなぁ」と思うことがある。
つまり、スケジュール帳が空白で、何も予定がない日、それがその「のんびりしたい」日なのではないか。犬とだらだら過ごして、飽きたら山に散歩に出掛ける。何も考えず、一生懸命匂いを嗅ぎ回っているユクを観察する。遠くに暮れゆく富士山が見える。
これって、望んでいたことだよね。