体力の衰えなどはまったく感じていないのだが、身体中に痛いところが増えてきた。格闘技のこともあるが、加齢もその要因を大きく占める。膝が痛い、首が痛い、指や手首が痛い。体が温まると痛みのことを忘れる。忘れているだけで、治ったわけではないので、もちろん、あとでまた痛くなる。そんなことの繰り返しだ。
あと何年のあいだ、柔術を楽しめるのだろう。
よくそんなことを考える。スポーツや格闘技はいつかできなくなるときが来る。趣味だとしても引退するときが来る。筋肉痛という言葉を知らなかった十代のころには考えもしなかった思考だ。「あと何年できるのか?」
今週は満開の桜を見ながら散歩した。
入学式や入社式などがある時期で、希望にあふれたイメージが一般的だろう。私も長年そのような印象を持ってきた。だが、それも少し変わってきた。
医者が人の寿命を告げるとき、桜が使われる。
「来年の桜が見られるかどうか」
このような言い回しで。
実際、母親の担当医は、このように言った。余命半年くらいかと覚悟をしたが、その後二年ほど生き延びた。
あと何回という言葉は、実はあまり意味をなさないということが、年齢を重ねると分かってくる。終わりは突然にやってくるものだからだ。つまり、常にこれが最後かもしれない、と思いながら、何でもやるに越したことはない。あと何回などと思いを巡らせると悲しい気持ちにしかならない。
ユクを迎えたとき、犬の寿命のことを考えて、しばらく悲しさで溢れていた。
それは勝手な悲観であり、犬だろうが人だろうが、いつ死ぬのかなど分からない。
今日の桜には少し緑の葉が混ざり始めていた。