茶道を習い始めると、最初は「割稽古(わりげいこ)」から、と決まっている。茶の湯の稽古は「茶事(ちゃじ)」を行うためのものだ。茶事は数時間をかけて行われる、準備や招待を考えれば、数日を要する。
待合で支度をし、庭を観て、蹲で手を清め、茶室に入り、釜や床を見て、座る。亭主が挨拶に現れ、厳かに炭点前が始まる。炭が整ったら、懐石を食べ、酒を呑み、一段落するとお菓子が出される。そして、一旦席を立ち、再び茶室へ。ここから濃茶のお点前が始まる。濃茶を喫した後、亭主によって炭が整えられる。後、干菓子が出されて、薄茶点前が始まる。
これが茶事の大まかな流れだ。これら速やかに流れて、四時間程度になる。
これを行えるようになるために、日々の稽古はある。
冒頭の「割稽古」は、文字通り、工程を割って稽古をすることだ。かなり細分化される。ざっくり言えば、日々の濃茶や薄茶の稽古は、茶事を「割った」ものと言える。さらに薄茶点前を割り、帛紗を捌く所作だけを稽古する。棗を清める所作だけを稽古する。割った稽古が積み上がり、全体として完成していく仕組みとなっている。
ブラジリアン柔術も、よく考えてみればこれと似ている。
いきなり何も習わず、取っ組み合いをすることは可能だが、それではまったく上手く行かない。袖や襟の掴み方だけでも方法があるからだ。柔術も一つひとつ技を習っていくものだが、上達してくると、その技と技が繋がってくる。相手がこのように動いたら、次はこの技、という風に。持ち手の多さが臨機応変にも通じるのだ。
ユクも日々、割稽古に余念がない。
マテとオスワリはとても大切な所作(?)だ。お散歩中にこれができないと信号も渡れない。人間の手に興味を持たせることも重要だ。犬の注意を人に向けやすい。ユクは食い意地が張っているので、人間の手に対する観察力に優れている。できることなら飼い主である、私の手にのみそうであって欲しいが、そう簡単ではない。道行く見知らぬ人の手の動きにも敏感だ。ご婦人がポケットに手を入れようものなら、何かおやつが出てくるのではないかと凝視する。ガサガサと音がすれば余計に注意を向ける。稽古の成果が過剰に別の方向性に伸びている。
オテ、オカワリ、グルン、などは遊びであり、他の犬の飼い主さんたちに可愛がってもらうための稽古だ。オテやオカワリをワンツーパンチのように繰り出し、今日もユクはおやつをせしめている。
これを割稽古の成果と呼んで良いものか。