茶の湯の点前を稽古する。点前を最初から最後まで出来るようになるためには、ある程度の日数がかかる。まずは場面を切り取って稽古する。これを割稽古という。袱紗を捌いて棗を浄める。この場面だけを「割って」稽古するのだ。
やがて、薄茶を点てたり、濃茶を練ったりできるようになるころ、今度はお茶事の稽古を経験し、お茶に至るまでの道程の長さを知ることとなる。お茶事の始まりは食事とお酒である。食べて呑んだあと、炭点前があり、主菓子を食べ、一旦庭の待合へ出る。ここまでで二時間くらいは経っているだろうか。ようやく濃茶点前が始まる。初めて経験したときには「やっとかよ」と驚いた。
普段稽古はお茶事のお茶の部分だけを切り取って行っていただけだったのだ。つまりそれも割稽古だったのだ、と気づく。
先週、犬の散歩中に見つけたチラシに興味が湧いた。中原中也の聴いたレコードを蓄音機で聴こうというコンサートの案内である。このコンサートを主催してくださった先生は、出来る限り中原中也が聴いた版のレコード盤で、かつその環境も近づけた上で体験したいと考えておられた。このような経験はなかなか出来ない。蓄音機のゼンマイが巻かれる。針が落とされる。電気的なアンプで増幅しているのかと思い違いするほど、想像の上を行く音量だった。
途中途中、先生自らが、レコードを裏返しに行かれたり、針を交換したり、ゼンマイを巻き直したりしてくださった。レコードを聴くのも大変だったことが分かる。私もレコードを聴いていた世代なので、昨今の音楽の消費方法には辟易している。まさに「消費」だろう。音を楽しむという音楽を聴くときのあり方を、蓄音機でのレコード再生は思い出させてくれた。
お茶もコーヒーも音楽も映画も、お手軽になった分、人生の時間に対してコンテンツ量が多すぎる。そこへ来て、二倍再生や編集されたあらすじ確認用動画の出現だ。これらのことに何かを書くまでもなく、歪であることは明らかだ。
テクノロジーのネガティブな側面について申し上げてきたが、犬の世話については、なかなか手間がかかるものである。タイパ、などと言ってられない。どなたかに散歩をお願い、つまりシッターにお願いして自分は遊び呆けるというのは、本末がどうなっているのか、と感じる。犬にはとにかく時間がない、人間よりも時間がない。たっぷりとかまってやらなければならない。