ユクとゆく

宮古島で保護された犬、ユクとの暮らし。

犬のように扱われた、という表現に引っかかる。

名古屋出入国在留管理局で外国人女性が亡くなったというニュースがあった。体調不良を訴えていたが、適切な治療を受けさせてもらえなかったそうだ。ご遺族が来日し、彼女の施設での様子を写した映像を確認した。最後まで見ることができなかった、というコメントからも、とてもひどい状況だったと想像できる。こうも語っていた。姉は犬のように扱われた。

mainichi.jp

私がSNSでフォローし、日々見ている投稿の主は、犬を溺愛している人ばかりだ。相当偏っていることは自覚しているが、とても愛に溢れた世界で居心地が良い。その偏りこそがSNSの特徴、恐ろしさである。見たいものだけを見る、という状態に自然となってしまう。さらに、ユーザ行動のプロファイリングによる、こういうものも好きでしょ?というようなサジェスト(提案)機能が追い打ちをかける。タイムラインは可愛い犬の写真と犬グッズの広告だらけだ。
このようにして、見たいものだけを見る、という人間が出来上がる。さらには、タイムラインに流れてくる意見が多数派に(自分の世界では)見えるので、世の中がそうなのだ、と思い込んでしまう。

 
 
 
 
 
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そのようなわけで、この一年間、私自身も犬好き世界にどっぷりと浸かる生活をしていたため、犬のように扱われた、という表現がいささか引っかかったのだ。犬の居住空間をなるべく快適にし、フードを吟味し、散歩から帰れば足や身体を拭いてやり、適宜ブラッシングやシャンプーをしてやり、わがままをしてもある程度許してやる。私を含め、私のフォローしている犬の飼い主さん達は、皆このような犬の扱い方をしている。そのような世界なのだ。この世界で犬のように扱われるとは、王子/王女様のように扱われるに等しい。特殊な世界ではあるが、特殊であることを自覚していれば良いのではないか。

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インドネシアキューバを旅したとき、多くの野良犬が街をうろついているのを見た。昭和の日本を懐かしんだ。野良犬はきっとゴミをあさったり、人に食べ物を分けてもらったりしながら、生き延びているのだろう。ゴミをあさる野良犬を嫌っている人も多いに違いない。国や地域によって、野良犬の扱いも違いそうだ。キューバでは、首輪をしている野良犬を見た。彼らには名札まで付いていた。おそらくは狂犬病ワクチン接種や去勢などを施し、犬の生命を守りながら共存できるようコントロールしているのだ。

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キューバの野良犬。道端で寝ている。

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キューバは暑い。人も道端で寝ていることがある。

犬のように、という比喩には、あまり良い意味がない。
ビートルズの歌にも、犬のように働いた、という表現があった。芥川龍之介も「羅生門」において、犬のように棄てられ、という表現を用いている。おおよそ人間にとって犬は、働かされたり、棄てられたり、懐柔されたり、するものだったのだ。
地球上のあらゆる生物が継続して共存できるような世界を人類は模索している。どこかを引っ張り上げればどこかが引っ込むようなもので、生きとし生けるものすべてが幸せになることはそう簡単ではないだろう。しかし、そのように願いながら生きていくのは悪いことではない。

犬のように扱うという表現がいつか、猫かわいがりと同じような意味になって欲しい。

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