自分が小学生の頃。
近所の友達を招いて、母親が自宅でお誕生日会を催してくれた。私が個別に声をかけて、友達に来てもらった。ケーキやゼリーを振る舞って、食べるだけの会ではあるが、とても楽しかった。お友達は皆それぞれにお誕生日プレゼントを持ってきてくれた。今なら、そんな小っ恥ずかしいことはやめてくれ、というような催事であるが、当時は主役になることに対して、まったく恥ずかしいとは感じていなかった。当たり前か。
プレゼントをもらうことは恥ずかしかったので、数日前に友達に何が欲しいのか、と打診されたとき、本当は当時夢中になっていた釣りの本が欲しかったのに、将棋かなぁ、などとはぐらかしたものだから、お誕生日当日に「将棋入門」という本をプレゼントされた。余計なはぐらかしや遠慮はするものでないな、と小学生ながらに後悔した。
なぜ自分の誕生日会を思い出したかというと、ユクが四歳のお誕生日を迎えたからだ。保護犬なので、正確な日付は不明だ。身体や歯の状態から、保護されたときの推定月齢から割り出されたのが九月。さらに適当にこちらで十五日と設定した。私も九月生まれだし、十五日など忘れてしまいそうなので、同じ日に設定し直すかもしれない。しかし、自分の誕生日もいまや忘れてしまう対象なので、悩ましい。
ユクがうちへ来て、私たちが犬と暮らし始めて三年以上も経過したのだ。
つい先日まで、おおよそ九ヶ月齢です、などと皆さんにお伝えしていたように感じる。時の経つのは早い。
犬の寿命は人間に比べて短いので、七倍速くらいの速度で進んでいるようなものだ。このような考え方自体はあまり意味のないことだと理屈では思うが、どうしてもよぎってしまう。ユクは、人間換算で(これも意味のないことだと思うが)二十代後半になった。この調子で歳を取ることを考えると、もの哀しくなってしまう。
ユク坊、おめでとう!一緒に居てくれてありがとうね。うちへ来てくれてありがとうね。長生きするんだよ。いっぱい散歩に出掛けようね。などと犬には解らぬ人間の言葉で話しかけていると哀しくて涙が出てくる。
今日を大切に生きるということは、きっと死を意識することと一体なのだ。