いつかの法事の帰り、父と叔父、叔母、従兄弟たちと食事をしていたときのこと。私はもう五十歳になる、というようなことを話していた。すると、七十を越えた父と叔父が、声を揃えて、「五十は若いぞ」と言った。経験からそう感じたであろう言葉は、信じておくべきだ。三十を過ぎた頃、取引先会社の社長は、私の年齢を聞いて、「あと三回は失敗できるね」と、仰った。そのくらい若いということだったのだろう。今の私はあと何回失敗できるのだろう。
五十二歳になった。
ノストラダムスの大予言を信じていた私は、三十歳にはならずに世界の終わりを迎えるものだと思っていた。そのように人生を設計して育ってきた。だから「三十歳以上の奴を信じるな!」という言葉に興奮して電気ギターをかき鳴らし、マイクロフォンに向かってわめき散らす二十代を送っていた。
だが、大予言は当たらず、二〇〇〇年を迎えてしまった。
四十は二度目の二十歳と笑っていられた。五十は少し重たい。まだどのように受け止めてよいものだか、分からない。ずっと過ぎてから分かるものなのかもしれない。若かったのだ、と。
ユクも九月生まれだ。保護犬であるから、勿論正確な日を知り得ない。保護されたときの歯の状態などから推定されたものだ。
勝手ながら、九月十五日をユクの誕生日と制定した。
この九月でユクは三歳になる。筋肉痛など感じないだろう。羨ましい限りである。
人と犬の老いる速度の違いを、いつもながらに考える。どこかで私たちは同じ年齢となる。私が還暦を迎えるあたりだろうか。ユクが(人間換算であるが)六十歳になるなんて、今は想像ができない。私だって、自分が還暦などと、まだ想像もつかない。いや、実は少し想像できる。あとたったの八年だから。
三回目の二十歳です。
くらいの軽やかな姿勢で還暦を迎えたいものである。
ユクとゆく還暦。