前回、断捨離について書いた。
捨てる気持ちが高まって捨てたときに限って捨てた物が必要になる、と。
なぜ、捨てたくなるのか。
それは物のない世界を欲しているからだと思う。つまりノイズを少なくしたいのだ。眼前から物が消え、すっきりとした景色に身を置くことによって、思考もすっきりするのではないかと期待しているのだ。
目の前から物が消えると気持ち良い、という感覚は茶の湯で毎回体験できる。何も置かれていない畳に道具が運び込まれ、お点前が始まる。袱紗を用いて客の前で道具を清める。茶が点つ。会話も加わる。一連のことが終われば、亭主は「お仕舞にいたします」と言い、文字通り道具を仕舞い始める。
道具が仕舞われると、また畳の上は何も置かれていない状態に戻る。心地良い。すっきりする。断捨離による心地良さと似た体験だと感じている。
片付けや掃除は難しい。
いつか役に立ちそうな物、売れそうな物など、捨てるには忍びない物たちが身の回りには沢山ある。ずっと使っていなかったので、なくなっても困らないどころか存在すらも忘れていたくせに、いざ捨てようとなるとできないものだ。
捨ててすっきりしてしまいたい。ノイズを少なくしたい。はたして、それらは「ノイズ」なのか。
人間の脳は見ている物を勝手にすっきりさせる機能を持っているように思う。目の前にあるのにずっと探していて、なんだよこんなところにあったのかよ、となった経験をされたことのある方も多いだろう。
脳は、今の瞬間に関係のないものは見ないようにしている。いくら散らかっていようがゴミのような書類の山に囲まれていようが、見ていない。その脳の便利な機能によって私たちは雑然とした中にいても正気でいられるのだろう。
突然空き地になった土地を見て、あれ、ここには何があっただろうか、となるのもこれによるものだ。
このように脳は「ノイズ」をうまく消してくれている。だから、断捨離なんて、やらなくてよいのではないか、と考えることもある。捨てなくても良いが、片付けはしたい。片付ける場所がない。この微妙(絶妙?)なところで悶々としているのである。
ユクも苦手な犬に会ってしまいそうになったとき、目線を逸らして「会っていないこと」にすることがある。余計な争いごとを避けるためにも良い方法だと感心する。が、これは果たして意図してやっていることなのか、ユクの脳が勝手に見えなくしているものなのか。
意図的にノイズを減らす努力をしているようにも見える。
ユクを見習いたい。