ユクとゆく

宮古島で保護された犬、ユクとの暮らし。

ただ、犬になる。

禅やヨガに中学生の時分から興味があった。
大人になってから、坐禅は目的を持って行うものではない、ということが分かった。分かったというのは、理屈を理解したということであって、境地に至ったとか、体得した、ということでは決してない。理屈で分かっても身体でそれを実現できないということはよくあることだ。特に趣味であるブラジリアン柔術においてはその傾向が甚だしい。繰り返し練習あるのみだ、身体で覚えるしかない、と言われても、やはり理屈を知りたくなるのは性格だろう。

円覚寺門前。瑞鹿山と掲げられた下に座る鹿柄のユク坊。

坐るのはただ坐るのである。坐ると無我になれるとか、健やかになれる、などのことは脇に置け、ということだ。只管打坐、という言葉もある。目的もなく。
ヨガは坐り続ける身体を作るために行われていたそうだ。だから、禅と全く無関係ではなさそうだ。もう一つの趣味である茶の湯も禅との関わりがある。坐禅中の眠気を覚ますために喫茶したことから始まったとされている。
皆、とにかく坐り続けたくて仕方なかったように思える。本当に目的もなく?

坐ると何か良いことがありそうだ。つまり、そこに効能を求めて坐禅に興味を持った。しかし行き着くところは、そういう効能を求めることを止めて坐れ、ということなので、上手く言い包められてしまったような気分だ。

そんな感じはしませんが、こちらは建長寺門前です。

物を持たない暮らしにも憧れてきた。ミニマリストだ断捨離だと世間にも常にそれを促す傾向があるようだ。要らぬ物は捨ててしまおう、と勢いをつけて捨てまくった翌週に、久しぶりに電源を入れようとした電子機器の電源アダプターがないことに気づく。捨てたのだ。何が断捨離だ!結局買い直すので、地球に優しくはない。捨てるブームは買い直しをさせるためのものかと勘ぐってしまう。あながち間違いではないだろう。

煩悩全開!

北鎌倉にはお寺が多い。それも禅宗の。禅宗に定められた規律のとおり暮らしている雲水も僧侶もほとんど居ないように見える。妻帯するし、肉を食い酒も呑んでいる。

金メダルの後ろで犬のポーズ。散歩に行く準備運動です。

ユクは毎日ヨガをしている。正確にはヨガが犬に習ってポーズを作ったと思われる。そう、ヨガには「犬のポーズ」と呼ばれるものがある。二足歩行の我々人間がそれを真似して効果があるのか不明だが、私もなるべく毎日犬のポーズをすることにしている。
効果を求めるのではなく、ただ、犬になるのだ。