ここ北鎌倉では、今年の紅葉を長く楽しめているように感じられる。
暖かくなったり寒くなったり、いや、暖かい日のほうが多い感じか。暖冬と言われれば、そのような気もするけれど、このような年もあったのでは、などと、それなりの歳を重ねると思うところでもある。
紅葉は、生えている木の場所によって、速度が微妙に違うようだ。一斉に黄色くなったり紅くなったりするわけではないらしい。ある部分の木々の紅葉が終わりかけたら、すぐ横に生えている木々が色づき始めたりする。そのようなにバトンを渡していくので、全体として、長く楽しめる感覚がするのだ。十二月も半ばだというのに、円覚寺や浄智寺の紅葉が美しい。沢山散ってもいるが、その終わりかけの紅葉が、さらに秋の良さを引き立ててくれる。もう冬のはずなのだが。
そのようなことなので、ユクとの散歩も朝夕ともに紅葉を楽しみながら歩いている。自分が秋の生まれだからか、秋という季節が好きだ。暑さが取れて、かと言って寒すぎず、羽織一枚で過ごせる秋が最高だ。
茶の湯では、秋は名残の季節として愉しむ。
茶壺の底に残った茶葉を大切に、名残の茶事などを行う。侘びしく寂しい感じが一番出る季節でもある。
齢五十を過ぎると、終わりを考えるようになる。子供の頃に考えていた終わりと違い、すぐそこまで迫ってきた終末感である。簡単に言えば、具体的に終わりがイメージできるようになったとでも言おうか。あと何回これを、などと数え始めてしまう。五十の若造が何を吐かすか、とお叱りを受けそうだ。
紅葉狩りなんて、葉っぱが紅いだけ、と若いときに友達の友達が言っていた。私も二十代のころは、その程度の感覚だったかもしれない。今はどうだろう。まったく違う。毎日、ああ綺麗だな、と心に染み入る感じがする。ユクにも話しかける。綺麗だね。もちろん、ユクは紅葉などにまったく興味が無く、匂いを嗅ぐことに忙しい。
私が色づいた景色の撮影をしていると、シャッターの音に反応したユクはオスワリをして、こちらを見やる。
ユクを撮影した後、おやつをやるようにしていたら、カメラのシャッター音が条件付けられてしまったようだ。
仕方がないので、おやつをやっている。