ドラマの劇中、剣術の稽古をつけている師匠が弟子に対して「集中してないな、今日はこれで終わりだ」と言った。師匠は弟子の様子を見て、内面までも分かるようだ。私にも実際にこのようなことはあった。茶の湯のお稽古をつけていただいているときのことだ。普段から弟子がどの程度の技量でどのような点前をするか、ということは師匠は分かっている。そこの僅かな差が見えてしまうものと思われる。そしてその原因は心であるということも見透かしている。
茶の湯の稽古は、口頭で指導される。基本的にはやって見せるという教え方ではない。あとは、他の弟子の稽古や所作を見て、学びを深めていく。そういうこともあり、お茶の先生は、人の所作を細やかに見ている。習っている側も、稽古を重ねるたびに、段々と細部にまで気が回るようになってくるものだ。稽古は、そういう目を養っているものでもある。
細かいところを注意されるほど、稽古が進んだと捉えても良いと思う。細部の稽古ができるようになると、全体のこともまた見えてくるものだ。これは茶の湯に限ったことではないだろう。
小学生の頃の通知簿に「落ち着きがない」とよく書かれていた。母親はそれを嘆いていたが、私には「落ち着きがない」の意味がよく分からなかった。つまり、落ち着くということの意味が分かっていなかったのだろう。なので、それは改善のしようがなかった。遠回しな表現を使わず、授業中に他のことをしている、とか、友達とおしゃべりばかりしている、とか、何かをしていてもすぐに飽きてしまう、などと書いてくれれば分かったものを、「落ち着きがない」では、本人には何のことか分からなかったのである。
いま、犬と散歩に出掛けるようになって、犬に対して、落ち着きのない奴だな、と少し困ることがある。人間も五十を過ぎて、ようやく落ち着きを理解し始めたようだ。あっちへフラフラこっちへフラフラ、犬は好きなように歩き回る。犬も人も、散歩に慣れてきて、少しはマシに歩けるようになった、とは感じている。それでも、一旦外に出ると、犬は全く落ち着かない。落ち着きはないのだが、集中力はすごい。においを嗅ぐことについて、ずっと集中している。おやつを貰うにはどうすれば良いかということについてもずっと集中している。
落ち着きがないけど、集中力がある、という状態もあるのだな、ということを理解できたことは大きい。ずっと、落ち着きと集中力は同義であると思い込んできたからだ。落ち着きがなくてもよいではないか。たぶん犬も人も。