丁寧に暮らす、という言葉がここ数十年で流行っている。一日として同じ日はないので、今日一日をしっかりと味わい、丁寧に暮らすということの印象は、とても良い。私もそうありたいな、と思う。歳を重ねるほどに、一日一日のありがたみも変わってくる。それはおかしな話だがそのように感じてしまうものである。
二十代のころ、ひと月の間、旅行でロンドンに滞在したことがある。ひと月もあったので、慣れてきた二週間目くらいには、ゆっくり起きて、遅い朝食を食べ(昼食を兼ねていた)、溜まった洗濯物をコインランドリーに持って行き、夜は部屋で談笑をして一日が終わる、という、とても観光旅行とは思えない日もあった。丁寧な暮らしの真逆、雑な暮らしをした一日とでも言おうか。
ロンドンの滞在が残りあと三日、というくらいになって、慌てて大英博物館などを巡った。エジプトのミイラは見たが、博物館は広すぎて、とても一日では回り切れなかった。急に丁寧に観光をしようとしても駄目だ。こんなことならコインランドリーでふらふらしていた暇な日に、しっかり計画を立てて回っておけば良かった。……などとは微塵も思わなかった。
後になってみれば、時間がなくて駆け足で行ったミイラ見学は思い出深いし、洗濯以外に何もしなかった日も大変贅沢で楽しい経験に思える。
朝、ユクを連れていつものお寺に行き、日中はダラダラと一緒に午睡をし、日が暮れかけたら、いつもの道を散歩する。ああ、今日は犬の散歩くらいしかしていないではないか!とまるでまったく意味のない、世の中の役に立たない日を過ごしてしまったと、嘆く。
いやいやそんなことはない、この何の意味もなさそうな雑な一日こそ、後で思い起こすとキラキラと輝く一日になるはずだ。
以上が、犬の散歩以外、役に立つことを何もせず、雑な一日を過ごしてしまった愚かな人間が考えだした屁理屈です。