最近では、空気を読むことが悪いことかのように言われることが多い。数百年前から茶の湯の世界では、空気を読み合ったり、言葉でないところのことを探り合ったりしている。そういう遊びなのだ。おもてなしというものは、客と亭主における茶の湯の熟練度合いによって、良くもなり悪くもなる。つまり、何を申し上げたいかと言えば、おもてなしは受ける側にも相当な修練が必要なものである、ということ。
ほれ、わしをもてなしてみろ、とはいかないということである。
そんな面倒な、と思われるかもしれないが、茶の湯は面倒なものだ。だから愉しい、と感じる文化でもある。
空気を読むことに否定的な人でも、きっと共感力を持ち合わせているだろう。なぜならそれは人間としてとても大切で基本的な能力だからだ。共感力が全くないと、人類は生き延びてこられなかった。人類よりも強い生き物は地球上に沢山いる。その中を、集まったり力を合わせたりすることで勝ち抜き、人類は地球の覇者となった。そうするためには他者に対して共感する力が必要だったのだ。
文字や通貨の発明をはじめ、知恵のデータベース化や仕事や役割の分業制を進めてきたことで、人類は独りでも生きていける(と感じられる)ようになった。つまり、空気なんて読まなくても、独りで楽しくやってます、というようなことを宣言できるようになった。が、実際は違う。
はて。
前置きが長くなったが、犬の共感力とはいかなるものか。人とは違うが何かを感じ取っているということは見える。人が駆け出すと、犬も一気にテンションが上がり「阿呆」になる。ユクだけかも知れないが。
また、確かに人の精神状態が犬に伝わっているような気もする。人が穏やかなら犬も穏やかだ。それは横断歩道で緊張が伝わったりしたことで学んだ。
一日一日、犬と人が分かり合おうとしている。少しずつでも近付いていると思う。
最近、私はユクに話しかけるようにしている。ユクが言葉を理解できるようになることには余り期待していないが、話していることで、全身の雰囲気から内容や意図をつかみ取ってくれるようになるのではないか、と考えている。
そして、これは結構良い、と手応えを感じている。
犬と人。共感力を育て合う毎日である。