犬は走り回って調子に乗ってくると、おそらく自制心を失っているのだろう、興奮度合いがどんどん上がってくる。次第にガルルルルというような唸り声も混じってきて、明らかに自分を見失っているような状態になってしまう。犬の「馬鹿走り」と世間では呼ばれているようだ。ユクも、家で馬鹿走りを始めてしまうこともあれば、外でよその犬に出会ったときにだんだんと興奮してしまい、馬鹿になってしまうこともある。このときが危険で、馬鹿、つまり自制心のない状態なので、自分の脚の限界など気にしなくなってしまう。そして、何かの拍子で脚が痛くなり、キャイン!と悲痛な叫びをあげるに至るのだ。私たちは、なるべくそこの域に達しないように、いまは犬の興奮をコントロールするよう心がけている。
前回、膝の手術を勧められ、手術の予約まで行ったが、迷いに迷って直前でキャンセルした。セカンドオピニオンを訊くためだ。そのために横浜まで出向く。しかし今回の移動にはこれまでとの大きな差がある。マイカーがあるのだ!ユクは大好きな車に、いつものように飛び乗った。どこに行けるのだろう、と期待に満ちた顔をしている。ごめんね、病院だ。
近ごろの運転は、ナビゲーションシステムが付いていて気楽だ。次をどちらに曲がれ、と機械が教えてくれる。二十数年前に、営業車に乗って大阪を走っていたころは、道路地図を見て目的地まで行ったものだった。それが今では地図を憶える必要もない。テクノロジーに感謝するとともに人間は怠惰になるばかりで能力が下がっていってるのではないか、と皆が考えそうなことも少し考えた。
ナビゲーションシステムは到着まで30分を予測していたが、50分くらいで目的の動物病院に着いた。家を早く出ていて良かった。実は動物病院の駐車場に入る道が分からず、目的地付近まで来てから三周くらい余計にうろうろと運転したのだった。ナビもそこまでは予測できないようで安心した。
受付を済ませ、少し待った。呼び出されると、ロッヂのような洒落た内装の部屋に私たち夫婦と犬は通された。運良く、理事長先生に診ていただけることになった。先生曰く、メスを入れるのは最後の手段、ということだった。つまり、極力外科手術なんてしないで、本人(本犬?)の治癒力を活かすように導くという方針だ。「怪我をしたのだろうけど、この子は治っている途中で、これからもまだまだ治る。いますぐに手術はせずに、まずは犬自身の力で脚を強くしていくことだ」そのようなことを先生はおっしゃった。すぐに手術をしないほうが良い、と聞いた瞬間に私の目は安堵の涙でいっぱいになった。最後の手段は最後の手段だ。できることならそれを使わずに暮らしていけたら、と願う。その日は、脚へのレーザー治療とお尻からオゾン注入、そして酸素カプセルを30分間、という治療内容だった。
レーザー治療時のレーザーを直接目で見ると良くないということで、犬も人もサングラスを着けられた。仕事で嫌なことがあっても、ユクのサングラス姿を見れば必ず気が晴れるので、このときの写真を常にApple Watchに入れている。
お尻のオゾンが効いたのかどうかはユクに聞いてみないと分からない。酸素カプセルに入るのは嫌がるかな、と思ったけど、案外素直に入った。なんだか腹を括っているようでもあった。密閉空間に閉じ込められている間、私たちもユクのそばに居てあげられるようになっていた。こういう病院は良いね、と夫婦で話しながら、目の前のユクを励ました。
とにかく散歩をいっぱいして、山を歩いたり一緒に走ったり、はたまた階段ダッシュをする毎日。ユクの体力も今ではなかなかのものだ。散歩の途中でへたばって、抱っこしなくてはならないようなことも少なくなった。
どこまで手術なしで行けるのか。痛みがあるなら手術でも何でもして取り除いてやりたいが、メスを入れるのはどうしても不安だ。複雑な思いと、希望を抱きながら、今日もユクとゆく。