私は不思議なことや謎めいたことが好きだ。幼少の頃はこの傾向が大変強く、「世界の七不思議」や「世界の怪奇現象」などの本を好んで読んだ。「キミは名探偵」というような謎を解くような本もよく読んだ。不思議なことを不思議に思い、そこをきっかけに科学者への道へ進むパターンもあったと思う。が、私は謎は謎のまま、理屈で解明しない方向へ向かった。具体的には芸術の世界に向かったのだ。
芸術系の大学へ行き、音楽にものめり込んだ。芸術の良し悪しは数値で計れない。数値化することから逃げたような形だ。換言すれば、白黒つける勝負から離れたかったのだと思う。その割には負けず嫌いで、あのバンドに勝っただの負けただのと一喜一憂していた。まったく矛盾している。
私のもう一つの趣味、ブラジリアン柔術は、科学的だ。すべてに理屈があるし再現も可能だ。勝ち負けにはポイントも関わる。つまり数値化できる部分もある。お互いに技を研究し、それを披露し合う。またその技を他の人が使ったり、逆にその技に対応する技が生まれたり。と、多くの人の手によって研究され共有され、全体として進化していく。理系出身の強豪選手が多いのは、その仕組みによるところが大きいのではないか。(もちろん、そもそも物理への理解も深いのだろう)
私の妻は研究職をしている理系の人だ。
前述のように、私は理屈から逃げてきた文系(それも芸術系)人間だ。日常生活において、妻から学ぶことが多い。たとえば、一旦口を付けたペットボトルには細菌が増殖するので、気を付けなければならない、ということを私は知らなかった。独りで暮らしていた頃は、冷蔵庫のペットボトルや牛乳パックを直で飲み、一週間くらい平然と消費していた。おかずの作り置きも直箸で何日も食べていた。
ユクの生活についても妻の目が光る。毛艶や皮膚、歯の様子などをよく観察している。また、ユクの過ごす環境や食事についても様々手を尽くしてくれる。歯磨きも上手だ。私がユクの歯磨きを行うと、ユクが歯ブラシをベロベロしてしまい、それを見てヘラヘラ笑っているだけのひどい有様になる。当人たちは真剣なのだが、傍から見れば遊んでいるようにしか見えないだろう。私一人で犬を飼っていたらとんでもないことになっていた、と青ざめるばかりである。
過日、妻が「新庄剛志が日ハムの監督になるの、確からしいね」と言った。噂レベルだったものが、様々報道され、その内容によると、実現する可能性が高くなってきたからだ。この「確からしい」という表現こそが科学者(理系?)の言葉だ。私は使ったことがない。科学者は、仮説を検証し、計算や実験によって、それを証明することを試みる。そして、それを論文に書くことで他者と共有、また別の研究者がその論文をもとに検証をする。そして、再現性がある程度確認されて、それが「確からしい」となるわけだ。一度確認されただけでは科学ではないし、再現性がなければ証明されたことにはならない。なので、「STAP細胞」も認められなかった。
私などは「STAP細胞」の第一報を観ただけで、すごいすごいと騒いでいたが、妻は、ああいう格好で実験を行う研究者などいない、と割烹着のことも含めて冷静に見ていた。実際、このようなセンセーショナルな内容の論文や発表などはよくある話で、その程度のことですぐに大騒ぎしてはならない、と思っていたのだろう。
妻のおかげで、私も多少は科学的にものを考えるようになったと思うが、まったく理屈の通らない犬を相手にどこまで科学的にアプローチできるかが、目下の課題である。