私が趣味で行っているスポーツ、ブラジリアン柔術は、いわゆる格闘技だ。四十を過ぎて格闘技などやることになるとは思ってもいなかった。引っ越した先でスポーツジムを探していたところ、適当なところがなかった。その矢先、近所に総合格闘技ジムという看板を目にした。殴り合うようなことは、私はできない。腰も首も痛いし、おまけにすぐ疲れる。ジムを覗いてみるとダンベルなどが置いてあるのが見えた。皆が闘っている横、いや隅で筋トレをやっていても良いのではないか、と考えて入会した。
親の目を盗んでプロレスのテレビ中継を観ていたおぼろげな記憶がある。アントニオ猪木やタイガーマスクが大好きだった。その延長で、総合格闘技の試合もファンとして、どちらかというと観ていたほうだ。それでも、あくまでも観る側であり、自分でやろうなどということを微塵も考えたことはなかった。そう、腰も首も痛いし、おまけにすぐ疲れるからだ。
総合格闘技のジムでは、総合というだけあって、打撃クラス、グラップリングクラス、柔術クラスなど、様々なクラスがあった。せっかく入会したのだからひと通りクラスに出てみることにした。二十代三十代とギターを弾いて歌う以外に何も運動をしてこなかった付けが一気に回った。どれをやってもくたくたで、痣だらけだ。やはり、私には格闘技をやることなど、もう無理なのだ。と落胆していたとき、私よりさらに年齢が上の方から、君には柔術力がある、と褒められた。それを真に受けて、柔術着を購入し、七年が経った。今でもその先輩の背中を追っている。
ブラジリアン柔術を、知らない人に説明するのは難しい。もっとも分かりやすく説明するならば、寝技中心で行う柔道のようなもの、ということになろうか。雑な説明ではあるが、格好は柔道のようであるし、技も共通している部分が多いので、大きくは外れていない。
柔道の試合を観たことがある人はお分かりだろうが、袖や襟の(相手にとって都合の)良いところを握らせたくないため、試合開始と同時につかみ合いが始まる。そして、つかまれたとき、その相手の手を思い切り外す動きを、つかまれた方は行うことがある。このような攻防は柔術においてもある。握っていた手をブチッと外されたほうは、指がとても痛い。道着を握っていた指が、道着に巻き込まれて捻挫してしまうこともよくあることだ。
柔術のトレーニングを始めた当初は、頻繁に指を怪我し、テーピングで予防したりもした。だが、段々と怪我をしなくなってきた。動きの予測ができるようになってきたからだ。相手がこちらのグリップを切ろうとする動きに対して、瞬時にこちらもグリップを緩めているのだと思われる。意識しているわけではないので、そういうことが自然とできるようになってきたのだと感じられる。また、つかみ方も強すぎず緩すぎず、という感じだ。硬く握っていると、相手の動きに柔軟な対応ができない。こちらの身体に遊びがあったほうが、柔軟に対応できるのだ。
このブラジリアン柔術での力の使い方が、犬のリードを持つ手に応用できる。簡単に言うならば、力を入れすぎず、力を伝えすぎず、ということになる。先程の強すぎず緩すぎずの応用である。
ユクはもともと自由な野良犬であったため、リードを付けられることに慣れていなかった。リードを持つ人間のペースなど考えず、ぐいぐいと引っ張って歩いた。しかし、ここ最近は、私たち(人と犬)はリードで繋がっているんだ、ということを理解し始めたように感じている。犬と人間が、引っ張り合っていると、お互いの負担が大きい。できることなら、リードを引っ張らずとも、同じペースで歩けるのが望ましい。散歩のとき、ユクのスタート位置は、私の足のところ、すぐ横だ。歩き始めると、段々とユクのペースが速くなってきて、リードがピンと張り、そりを引く犬のような状態にまで至ってしまう。なるべくそうならないように、リードを緩めながらもリードでこちらの意思を伝えるということをしてみるようになった。
ユクがちょっとよそ見をしていたら、少しリードを引いて合図を送る。落ちているものに気を取られそうになったら、少しリードを引く。犬の動きを予測して、少し早めに、という感覚だ。調子よく、引っ張らずに歩けているときでも、コンスタントにリードで、私たちは繋がっているんだよ、という気持ちで合図を送っている。犬がこちらの意図通りに感じてくれているかは分からないが、うまく行っている感触はある。
今日も私たちは繋がって散歩している。
無論、私とユクの腰には白帯が巻かれている。