ユクとゆく

宮古島で保護された犬、ユクとの暮らし。

お礼

茶の湯の稽古に大阪まで通っている。十年ほど前、大阪から神奈川に引っ越す際、私はお茶の先生に引っ越す旨を伝えた。齢九十の先生は「鳩が豆鉄砲を食った」ような顔をされた。鳩が豆鉄砲を食った顔を実際には見たことがないが、鳩が豆鉄砲を食うとこのような顔になるのだろう、と想像できるくらい見事に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしておられた。数秒後、先生は少し早口の大阪イントネーションでおっしゃった。

「あんた来るわな?」

反射的に「はい!」と申し上げた。

かくして、私は神奈川から大阪まで、茶の湯の稽古に通うことになったのだ。先生は数年前に亡くなられて、今はその娘さんが後を継いでいる。先生が亡くなられる数時間前、私におっしゃった。「あんた、頼むわな」と。何を頼まれたのかは、よく分からないが、稽古は何とか継続している。

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せっかく、神奈川から大阪の稽古場に行くのであるから、何か手土産でも、とこちらのお菓子を持参する。たとえば鳩サブレーを持っていく(豆鉄砲を食う話とは関係ない)。すると、まず、「まあ鳩サブレ持って来てくれはったん?ありがとう」とお礼を言われる。そして、お茶を喫する際、お菓子を手にする前に、再びお礼を言われる。また、帰り際にも、お菓子ありがとう、とお礼を。翌週、稽古場に行けば、先日はありがとうございました、とこちらが何のことだったか忘れているくらいのタイミングで、とどめのお礼がある。お茶の稽古を積んだ淑女達は本当にすごい。

 

近所の広場で、ユクにいつもおやつをくれるおじ様がいる。ユクは年齢が高めの男性が苦手だ。しかし、おやつの誘惑の方が勝るようだ。恐る恐るではあるが、そのおじ様にも慣れてきた。今では、広場まで駆けて行くし、目の前でお座りするようにまでなった。根気強くお座り、お手を練習させてくださるこのおじ様には大変感謝している。しかし、毎度毎度頂いてばかりでは、心苦しい。何かお礼はできないか、と考えた。おじ様も犬を連れている。あの犬が食べられるものをお返ししよう。しかし、その犬は15歳を過ぎた高齢なので、あまり固いものは食べられないかもしれない。

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飼い主がお礼を気にかけていることなど知ったことではないユク坊

あるとき、おじ様が、

「犬の食欲がなくなったときに、上にさぁ、あの何とか言う……ええと……ちゅるちゅるってのがあるだろ?あれをかけてやると食べたんだよ」

とおっしゃっていた。

ちゅるちゅる……何のことだ?あ、そうだ!みんな大好き「チャオちゅーる」のことだ。なるほど、あれなら老犬でも大丈夫だ。

 

ということで、口頭でのお礼はもちろんではあるが、時々お礼の品物として、ちゅーるをお渡ししている。これで心置き無く、ユクにお座りとお手の稽古をつけてもらえるというものだ。臆病で慌て者のユクでも少しずつ上達している。継続は力だ。

 

継続すること、ただ稽古を続けること。それが先生の、最後に頼まれたことだったのかも知れない。