私にはかつて同じ会社で働いていたが、七八年くらいは実際に会っておらず、スマートフォンのメッセージアプリでやり取りを交わすのみ、という友達がいる。そんな彼と、頻繁にやり取りをしている。お互いに、このような返事を寄越すだろうと期待してメッセージを送信しているのではないかと思う。大体は意外ではない返答が返ってくる。
私はロボットと対話しているのでは、と不意に思う。
もしや、これまでのやり取りすべてをAIに学習させれば、本人など要らないのではないか、とディストピアな世界を身近に感じる。
ここ半年ほどだろうか、対話型のAIに関する話題がよく聞かれる。Microsoft社も、自社の検索エンジンにその仕組みを入れた。Google社の独占市場であった検索エンジン市場をひっくり返すのではないか、という勢いである。現代社会は一つのテクノロジーで大きく勢力地図が変わる。Googleですら胡座をかいてはいられないようだ。
対話型AIは、誰かとお話をしている気分になれるような代物だ。友達がいなくても、ずっとAIとお話をして孤独を紛らわせることができる。
ただし、この程度のAIを作る話は割と昔からあったので、今のこの騒ぎにはピンと来ないのが本音だ。
AIには、学習させるためのデータやモデルが重要である。人間は偏見に満ちている。その人間をモデルにAIが作られるのだから、AIも偏見に満ちてしまう。またもやディストピアが見えてくる。
犬のAIももちろん実験されているだろう。様々な犬のデータを学習させると、平均的な「犬」のAIが出来上がるだろう。だが、そんな平均的な「犬」と交わって面白いだろうか。
やはり平均的ではない犬こそ面白いのではないか。
つまり犬のAIを作るときは、平均的なところを目指さず、おかしな癖を持った犬のAIを作るほうが良いと思われる。
平均的な人間の考えなんて面白くもなんともない。平均的な犬の行動だって、まったく面白くないだろう。
ユクのAIなら欲しいかな。いや、またディストピアだ。
この駄文を集めたブログも、そのうち自動化できるだろう。
私がAIになるときだ。