引っ越してきてから、まだ散歩のコースが定まっていないことは前に書いた。散歩コースがない、という意味ではない。むしろその逆でありすぎるほどだ。仕事に戻らなくてはならないという制約もあり、時間的なことも悩みの種だ。三時間でも四時間でも散歩していて良いのならずっとぶらぶらしていればよいのだが、そういうわけにもいかないのだ。

ユクは鶴岡八幡宮へ行きたがる。その方面に、と感じていたが、どうも鶴岡八幡宮を通りたいようだ。もちろん、そこが目的地ではない。そこを経由して海を目指したり、元に住んでいた北鎌倉に向かったりする。由比ヶ浜に行けば往復二時間、北鎌倉に行けば往復三時間を覚悟しなくてはならない。仕事の時間がなくなって、結局週末に働かなくてはならない、というような事態に陥る。

それでも良いとも言えるが、生活のリズムとしてどうなのだろうか。いや、そもそも生活のリズムなんて、定めようとするからいけないのであって、毎日その日の気分で生きていくほうが「自然」なことなのかもしれない。いやいや、わざわざ人類は時計というものを発明してまで、「時間」を意識して生きていこうと考えてきたではないか。それこそが文明というものであろう。

文明という言葉を聞いただけで、カステラが食べたくなった。
今日は山に行ってやろう、と私は目論んでいた。暖かくなると、蜂やその他の虫たちが現れるので、今のうちに行っておかねばならないとも考えた。少し抵抗するユクを引いて、平成巡礼道に入った。最近の雨のせいで足元がぬかるんでいた。ユクはぬかるんでいないところを慎重に選びながら歩いている。こういうところは飼い主に似て、神経質な様子だ。

少し進むと、もうぬかるんでいないところを選べないほどの場所に来た。ユクが振り返り、私の顔を見た。「これはもう進めないよね。大体なぜこんな日にこんなコースに来るかな? 引き返すぞ!」という気持ちが伝わった。「しゃあないな、引き返そう」と言い終わる前から、空気を察知したユクは急いで山道を下っていく。その背中は少し怒っているようでもあった。

結局、鶴岡八幡宮へ来た。そのまま桜が満開の段葛を端から端まで歩いた。八割が外国人で、おそらく九割が観光客だ。段葛を歩きながら、私は気がついた。
こうやって、周りの人々に気を遣いながら奔放な犬を連れて回ることが嫌なのだ。人のいない山道を、ユクと私だけでぼんやりと歩くことが好きなのだ。私の探しているのはそんなコースだ。いくつか思い当たる。コースをうまく組み合わせることも大切だ。

ユクは少しも桜を愛でることがないが、観光客の皆さんだって、桜と写る自分たちをスマホで確認しているだけのように見えた。