古い道具ばかりを使っているからといって、すべてが古臭いというわけではない。茶の湯の話である。

初釜という、年明け最初の茶会があった。私は半東の役を務めた。お点前を披露する役ではなく、その横で挨拶をしたり、道具の説明をしたりする役目である。正直に言えば、点前をしているほうが気は楽だ。失敗しないか、手は震えないか、と気をもみながら点前をするのだが、それほど誰も見ていない。茶席にはお菓子があるからだ。点前が始まるとお菓子が勧められる。お菓子を取り始めると、点前の方など誰も目をやらなくなる。

水屋から茶を出したり、下げたりするのも大変だ。空いた器が残っていないか、という気配りもしなければならない。だからすぐに気が付いた。点前をするほうが、楽なのだ。
ただ、ここにも問題がある。高価な道具を扱う必要がある、ということだ。入門したての頃は、道具のありがたみもそれほど分かっていなかった。今となっては肝が冷えるが、知らないということは強い。年々、知れば知るほど道具の扱いが怖くなるし、知らないことの多さに驚かされる。知るほどに無知になっていくような、そんなパラドクスがある。

江戸時代、大正、明治、昭和、平成――あらゆる時代の道具が、ひとつの席に組まれていた。茶杓の銘は「長久」。永久への想いと願いが、道具組から伝わってくる。つまり、未来を想像しているのだ。古い道具を使っていても、二十四世紀のことを考えることはできる。

犬との未来は、せいぜい数年先までだ。犬の寿命は、どうしたって二十年には満たない。さて、私のテーマは「二十年の中で、いかに永久を見つけるか」ということになる。
永久を思うのも今。
死んで失うものを思うのも、今。
そんなところに、ヒントがあるのかもしれない。
