二〇二五年も終わろうとしている。気がつけば、年が明ければ二〇二六年だ。
「二〇二六」という数字の響きは、どうにも漫画じみている。
ドラえもんの未来都市、バック・トゥ・ザ・フューチャーの空飛ぶスケボー。ああいうものを、私はずっと「未来」と定めて生きてきた。だから、二〇二六年という語感そのものが妙にフィクションめいて聞こえる。

子どもの頃から、さまざまな便利なものが次々と発明され、そのたびに私たちは胸をときめかせ、新しい文明を買っては遊んだ。超合金のようなおもちゃ、ゲーム、ラジコン、ラジカセ。そのどれもが、当時の私にとっては小さなSFだったのかも知れない。
十歳の頃、塾に通い始めるタイミングで買ってもらったデジタル時計は、ひときわ眩しかった。腕に宿る無駄な重みが誇らしい。用もないのに時刻を確認し、必要もないのにストップウォッチで時間を測った。未来を身につけているような気がしていたのだ。

LSIゲーム、ゲームウォッチ。小さな液晶を眺めて、一喜一憂していた時代。ファミコンが登場する前の、わずか数年の期間だが、あのミニチュア感が子どもにとって最高の宝物だった。
あの時代の大人たちも、そして親たちも、心のどこかで同じ熱を共有していたのかもしれないが。

ラジカセで自分の声を録音し、インスタントカメラで写真を撮る。
時代が進むほどに、これらがひとつ、またひとつと消えていった。そして今では、そのすべてがスマートフォン一台の中に収まっている。どこまでが進歩で、どこからが喪失なのか、ふと分からなくなる。
こんな未来で本当に良かったのだろうか。ふと、そう思う。

私が子どもの頃に見ていた犬たちは、みな外の犬小屋につながれ、白飯に味噌汁をぶっかけたようなご飯を食べていた。きっと寿命も短かっただろう。
それが今や、犬たちは温かい家の中で眠り、良質な食事を与えられ、丁寧に世話されるようになった。犬の未来は、人間社会の未来よりよほど幸福そうだ。

そしてまさか、その「犬と暮らす未来」が自分の人生に訪れるとは、当時は思いもしなかった。あらゆるものがスマートフォンに吸い込まれていくこの世界で、犬を飼うという行為だけは絶対にスマホの中に入らない。
だからこそ、これからも
スマホに吸収されないものと生きていきたい。

未来の中で失われずに残っているもの。
そのほうが、よほど大切な未来だ。