山を歩くのが好きだ。多分、犬も飼い主もそうだ。
平日の山は人影が少なく、もちろん車も通らない。静けさの中で、自分たちだけが小さな小さな生き物として、道の上に存在しているような気持ちになる。ユクはといえば、あっちへクンクン、こっちへクンクンと、鼻先での仕事に忙しそうだ。山に入ると、ユクの目つきが少し野生に戻る。活き活きというか、らんらんというか、とにもかくにも輝いて見える。

北鎌倉の住宅街を歩いたとしても、人混みと言うほど混んでいるわけではない。だから街歩きの散歩も決して悪くはない。むしろ、適度に人がいて、適度に刺激がある。それはそれで大事なことだ。ただ、街の中よりも山の方が、どうにも気持ちが軽くなる。その理由は“自然の中だから”という一言では片付けられない気がしている。自分の歩幅で歩けること。視界に立ちふさがるものがないこと。空気の流れが変わること。直線が減ること。そうした細かな変化が、積み重なって心身をほぐしてくれるのだろう。

蚊や蜂を恐れて、夏の間は山に入らない。それでもこの夏は、毎週のように海へ行った。ユクは海(本当のところは浜だけど!)も大好きだ。海へ行きたがる犬の気持ちをなだめ、リードを軽く引きながら、今日は山だよ、と言い聞かせるように歩く。犬がどう受け止めているかは不明だが、たまには山の匂いを嗅いでおく必要があるのだ、とこちらは勝手に思っている。

行ったら行ったで、ユクのクン活は活発だ。
それにしても、山には一体どんな匂いがあるのだろう。
犬だけではないはずだ。鳥、狸、アライグマ、タイワンリス――そんな面々が残した痕跡の匂いだろうか。幸い、私たちが歩くこの山には熊は出ない。だから呑気に歩いていられる。

ぼんやり歩いていたときだった。どこからか低い羽音が聞こえてきた。嫌な予感がして見上げると、大きなスズメバチが空中からこちらを睨んでいた。全身が一瞬で強張る。内心では慌てていたが、慌てると余計に追いかけられる。

「やべーよ、ユク坊……」
そう小さくつぶやき、クンクン仕事に夢中になっている犬を、そっとその場から引き離した。
どうやらユクは気づかなかったようだ。
良かったな!