うなぎが食べたい。
うな重が食べたくなる。

定期的に——いや、数日おきにその衝動は腹の底から湧き上がってくる。
まるで、ひどい宿酔いに苦しみながらもまた酒を口にしてしまう酒飲みのように(知らんけど)、うなぎが食べたいという気持ちに支配されるのだ。

原因はユクにある。
ユクがうなぎのように巻いて座っているのを見ると、どうしても「うなぎ」を連想してしまう。
「う」の字のように見えるのだ。すると、もう頭の中はうな重一色になる。

ユクはよく丸くなって寝る。
涼しくなると、身体を巻いて温もりを保つのだろう。そして器用に、巻いた自分の尻のあたりに頭をちょこんとのせる。それがもう完璧にうなぎの形である。
ああ、うな重が食べたい。

うなぎの焼き方は関東と関西で違う。
関東風は蒸してから焼く、ふっくらとした柔らかさ。関西風は蒸さずに直火でカリッと焼く。中はとろりと柔らかい。どちらも美味しい。
いまでは東京でも関西風が食べられるし、大阪でも関東風を出す店がある。食の地域差は薄れつつあるけれど、それでも心の中には、故郷の味の記憶が残っている。

好物というのは、不思議なものだ。
「これでなければならない」と言い切るものではなく、「もっと美味しい何かがあるかもしれない」という淡い希望を内包している。完全なる満足は、探求の心を終わらせてしまう。
「これは旨い!けれど、もっと旨いのもあるのではないか」
そう考えて店を渡り歩く——それこそが好物というものの本質だと思う。

だから私は、「ここが日本一旨い」と決めることを恐れている。決めてしまった瞬間に、旅が終わってしまうからだ。
これまでで一番美味しかったうな重の店は、もうなくなってしまった。記憶の中の味は、きっと少しずつ成長している。再現できない味ほど、美化されていくものだ。
だから私は、まだ探している。最高のうな重を。

——不思議なことに、年齢を重ねるにつれて、
「最高のカツ丼」を探す情熱はすっかり消えてしまった。
人の好物も、少しずつ移ろうのだろう。
円覚寺の門前も色づいてきた。