ユクとゆく

宮古島で保護された犬、ユクとの暮らし。

而二不二。円覚寺夏期講習会に参加した。

残念ながら人間の話だ。
犬は夏期講習に参加できないようだから。
犬フレンドリーな円覚寺でも座敷には犬はあがれない。

雨散歩がんばったのに?

というわけで、人間のみが参加することとなった。
「サイン会」には参加しなかったし、日曜説教会などにも参加したことがなかったので、円覚寺の傍に住んでいながら、初めて管長、横田老師のお話を直に聴くこととなった。午前九時から、ということなので、十分前に着けばよいだろうと時間を調整してうかがった。大方丈に入ってみると、もうすでにびっしりと席が埋まっていた。皆さん何時に来られたのだろうか。砂かぶり席を陣取ろうと早くに来られたにちがいない。「サイン会」は伊達ではない。

午前九時。
講話が始まった。
横田老師はお話が始まると数分ごとに笑いが起こる。お話がとても上手だ。私は大学の講義を十年以上行っているが、こんなにドカンドカンと笑いが起きたことなどない。

老師のお話は、私にはこう響いた。
「すべてはひとつである」
これに尽きる。
この地球では戦争が絶えない。二項対立によって、善悪の判断が求められ、敵味方に分かれて争いが起こる。これの繰り返しである。本当は百人居れば百の考え方があるのであって、二つにきちんと分けられるものでもない。老師は「分別」についてもお話された。「人の考えを分別するものではない」ということであった。

大学生のとき、杉浦康平という先生の授業で「而二不二(ににふに)」という言葉を聴いたことがあり、ずっと印象に残っている。杉浦先生はインドの宇宙観、世界観などの講義をしてくださって、不思議な話をする先生もいるものだ、と十代の私は思った。ただ、その時には何も分からなかった。いまも分かっていないかもしれない。ただ、「而二不二」という言葉はおぼえている。

仏教の考え方では分別しない、二つは一つである、などという考え方は何千年も前から説かれていたのだ。それなのに、人類はまったく争いを止めない。はて、一体どのようにすれば良いのでしょうか。

犬もまったく争いを止めない。
ユクはすぐに他の犬を威嚇する。もう、これは今さらどうすることもできないように思う。争いが起きそうな犬を人間がリードを引いて回避してやるしかない。ユクに理屈は通じないので、而二不二なのだよ、と言っても始まらない。

「べらぼう」第一話で蔦重が歩いた道。

ただ、何度も言うが、人間はなんとかなるはずである。
対立している二つの事柄のあいだに無数の解釈が存在していることを認識しなければならない。

私などない状態を「無我」と仏教は言う。
利他的に生きろ、と仏教は諭す。
利他、という言葉の反対語は利己だ。利他という言葉の前提に利己があるではないか。利他的に生きる目的は利己につながるからではないか、と訝ってしまう。そのとおりだろう。
ただ、あなたもわたしもない、としたら。
無我というのは、わたしもあなたもない、ということにつながる。

おまえのものはわしのもの。

すると、利他的=利己的となり、すべては一つとなるのだ。
いかにも禅的な言い回しとなってしまうが、今のところ、それが一番しっくり来る。
しかし、それをどう実践できるのか、ということはまた別の問題だ。

こうやるのだよ。