妻が妻になる前の話。
私が彼女とはじめてのデートに行った際、お昼に鴨のローストを食べた。これがとても美味しかった。はじめてのデートなので緊張して味も覚えていないということになりそうなものだが、そんな緊張も忘れるほどに美味しかった。高台にあるそのレストランの下には池があり、優雅に鴨が泳いでいた。あそこにいる鴨かも?いやそんなことはあるわけがなかも?奇妙な心持ちで素晴らしい鴨料理を食べた。このときの鴨の味は夫婦の中で語り継がれている。
その後、同じ店に二人で再訪問したことがある。メニューにあるのは鴨料理ではあったけれどローストではなかった。かくかくしかじかと以前にここで食べたことがある鴨のローストのことを給仕の方に伝えてみた。快く引き受けてくれたのだが、出てきた鴨は見るからに違う、食べてもやはり味わいが違う。かくて私たちの食べた鴨ローストはさらに神格化され、過去に釣った魚がどんどんと大きくなるがごとく最高の一品となってしまった。あれ以上の鴨料理には、まだ出会っていない。
最近、近くの池でつがいの鴨を見かける。
毎朝行く、浄智寺の境内にも鴨夫婦がいることがある。
ユクには動く物に俊敏に飛びかかろうとする習性がある。その習性を理性で抑えていただきたいものだが、お構いなしだ。この場合の動く物には生き物も含まれる。もちろん人間も鴨も含まれる。
鴨は素早く動いたりしない。優雅に境内にある橋のかかった池でくつろいでいる。実際には池の中の生き物を捕らえようとしているのだろう。首を水中に突っ込んでいるからだ。そんな状態でも水の上に浮かんでいる鳥は優雅に見える。
ゆったりしているので、ユクもゆっくりと眺めている。そして忍び足で近づいていく。鴨夫婦は犬が近づいてきていることを察知している。一定の距離を保つよう、すました顔のまま器用に水面に浮かぶ。ユクは水が苦手なので、飛び込んでいったりはできない。それでも水の際まで行って、橋の下に逃げていった鴨夫婦を探す。
美味しそう、と思っている節はない。
鴨のことをどう感じているのか。水の上にいるので尊敬の念を抱いているのだろうか。
別の朝、鴨夫婦がいないこともある。鴨は飛べるからだ。
ユクは池を確認する。橋の下を覗き込む。
ユクの頭の上には「?」が浮かんで見える。
私には鴨は、美味しく見える。