犬に何かを教える、もしくはしつける、ということをするときに、障壁となるのが言語の問題だ。言語は私たちに意味の空間のようなものを作り上げる。
モノやコトに名前を付けて意味を持たせる。意味とはそれらの関係性とも言い換えることができる。名付けるからモノもコトも分離して行き、それぞれが孤独になってゆくのだ。
名前なんて無ければ、皆が同じでひとつなのだから。
犬はおそらく、言葉による概念空間を持っていない。だから理屈で叱っても、まったく理解しない。それを分かっていながらつい理屈を言ってしまう。単に人間側の都合を申し上げている馬鹿げた状況になってしまう。
ここのところ、ユクに道端の草を食べないようにしつけようとしている。犬が草を食べるのは、胃の調子が悪いのを調整しているのだ、というような話も見られるが、本当のところはよくわからない。草を食べると便がつながる。つながると便がおしりにぶら下がる。すると、犬がそのことにパニックになる。結果、くるくる回りながら、自分の口でそれを取ろうとし始める。飼い主のほうもそれをさせじとパニックになる。
そう、犬にも人にも良くないのだ。だからなるべく草を食べないで欲しいと思っている。道草を食うとはよく言ったものだ。果たしてあの言葉の主語は、人なのか動物なのか。
散歩から帰ってきて、「今日は草を食べたね、あれはいけないことなので、やめてくださいね」と言ったところで犬は理解できない。草を食べたその瞬間に止めなければならない。それを繰り返しているうちに、ユクは草を食べると叱られるということは学習したように見える。なぜ草を食べたら飼い主が叱るのか、は理解していない。そこが悲しいところではある。
散歩中、まったく草を食べなかった日も出てきた。
草を食べないようにするしつけは、まずまず成功してきたように感じている。
私が他の犬の飼い主さんとお話している最中にこっそり草を食べようとすることがある。明らかにその瞬間を狙って食べている。あるいは草の先のほうをサッと食いちぎるように、また、私から見えないような角度で食べようとする。そのくらい叱られることは理解しているのだ。ただ、なぜ、というところで分かりあえないのがつらい。
ユクにとって、私は突然キレるうざい奴なのだろう。
まぁ、便がつながってパニクることを考えれば、それでもよい。