ユクの大好きなお隣さんが引っ越してしまった。黒柴君のことも、その飼い主であるご夫婦のことも、ユクは大好きだった。最後、挨拶に来てくださったときも、ユクは恥じらう乙女のようにご夫婦にすり寄っていた。飼い主である私たちにもここまではしないので、やや複雑な気持ちにはなる。
残念だね、でも近くだからまた会えるよね、などと話しかけるが、これでしばらく会えなくなる、などと感傷に浸ることは犬にはない。いつも通りである。
毎日、空になったお隣の家の横を通って散歩に出掛けるのだが、ユクに特別変わった様子はない。人間だけが、引っ越しちゃったねぇ、などと思うばかりである。
散歩のとき、ユクは入念に他の犬のマーキング跡を嗅ぐ。昨日の散歩では、なんとユクは嗅いだ瞬間唸り始めた。見渡せど、犬などいない。ユクは路地という路地を俊敏に覗き込み、何かを探しているみたいだった。やはり何もいない。猫もリスも見当たらない。
ユクをなだめて、また少し歩き始めた。なるほど。前方にユクの天敵とも言える犬が見えた。あの犬の匂いが残されていたのだ。案外遠くにいるのにユクは烈火の如く吠えた。ここまで吠えるのは珍しい。
見えなくなったら、また平然とした顔で散歩を続行し始めるユク。切り替えが早い。
夜、ユクは牛の蹄(ひづめ)をもらえることを楽しみにしている。しかし、毎日与えるわけにもいかないので、数日おきのお楽しみである。ユクはこれが洗面所付近に置かれていることを知っている。だから、私たち夫婦のどちらかが、洗面所のほうへ行くと、「あれ」がもらえるかもしれない、と小躍りしながら付いてくる。この予測は外れることが多いのだけど、ユクは落ち込みを引きずらない。切り替えが早い。
人間も健全に生きるためにはこれに限る。切り替えだ。過去や未来にくよくよせず、いま、この瞬間に集中することだ。犬の、瞬間への集中を見習おう。