ユクとゆく

宮古島で保護された犬、ユクとの暮らし。

無頼に憧れる、きちっとしたい男。

学生時代、友人の部屋へ遊びに行ったところ、CDの中身とケースがバラバラに収納されていたことがあった。自分の持ち物ではそのようなことは絶対にしたくないが、平気でそうできる友人を少し羨ましくも感じた。汚れるのは嫌だけど、汚れても平気な顔をしている友人を格好良く思ったりもした。

何でもきちっと揃っておいて欲しいけれど、そんなことを気にしていないような人間への憧れが常にあった。無頼への憧れだ。

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後先考えずに無茶苦茶できるのを格好良いと思い、そう見えるように振る舞う努力をしてきた。たとえばバンドで演奏しているときなど。ギターを振り回してドラムセットに背中から飛び込むようなことをよくした。こんなロックな振る舞いも、大変冷静にそのシーンを組み立ててから演じた。傍目には一瞬の盛り上がりに身体を任せて、あいつはロックな奴だ、と見えたかもしれないが、それは冷静に計画されたものだった。

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きちっとしていることが少し格好悪いのではないか、と考えていた。小学生の時分、新しい靴をわざと汚したりしたのは、まさにその考えが原因だ。新しい靴なのに汚そうとするので、母親に残念そうに叱られた。
きちっとしたい気持ちを抑えて、きちっとしない人をずっと演じてきた。細かいことは気にしていないような人間を。一部の人にはその演技が透けていたかも知れぬが。

 

茶の湯と出会い、その抑圧されていた心が開放された。

茶の席では、畳の目いくつ、というところまで、人の座る場所や道具の置き場所が決められている。亭主はここにこの向きに座り、客はここ、道具はここにこの向きに、ということがきちっと決められているのだ。居心地が良い。きちっとしたい気持ちが、きちっとして良い空間において開放されたのだった。

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きちっとしたいという気持ちは、つまり環境をなるべく自分でコントロールしたい、という気持ちから生ずるのであろう。環境を他者によって乱されたくない、ということなのかも知れない。そんな私のところへ、犬がやってきたわけである。

 

犬に対して、きちっとして欲しいという要望は無意味である。何かを破壊されても、犬に悪意はないし、そのことを諭しても仕方ない。きちっとしないのが犬だ。それでも犬との生活は、とても心地が良い。何故か。ここでは茶の湯とは逆に、きちっとしないことの気持ち良さが開放された。細かいことを気にしたところで、本当にまったく意味がない。気にしないに越したことがない。

 

人には多面あり、細かいことを気にしたいところとどうでも良いとおおらかに生きたいところとが同居している。

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普段、好き勝手やっているユクが、ご飯やおやつを待つときはきちっと座るのが可笑しい。犬は細かいことなどは気にしていないだろうが。
おやつを弾むほかない。きちっとしたい男の心は見透かされているようだ。