ユクとゆく

宮古島で保護された犬、ユクとの暮らし。

褒めて伸ばすしかない!

体罰はいけない、という世の中になって本当に良かった。
小学四年生のころ、皆の前に立たされて叱られているとき、先生に後ろ回し蹴りを食らった。予想外であり、腹に食らったので、一瞬息がしにくくなり、大変苦しかったことを記憶している。しかし、なぜ叱られていたのか、をまったく思い出せない。良くない叱り方だ。あれには今でも怒りしかない。

 

なぜ叱られたのか、をよく憶えているものもある。
「こんな家は嫌や、はよ出ていこ!」と言い捨てて、ランドセルを背負い家を出ようとしたところで、父親にひどく怒鳴られた。こんな家とは何事か、と。
また、中学生のとき、助手の先生に「おーい助手!」と呼びかけたところ、助手でないほうの先生に思いきり殴られた。いずれも調子に乗った失言に対して叱られた。怒鳴られたり、叩かれたりすることで、それほどいけないことなのだ、という認識もできた。痛みや恐れで、いけないことの度合いを理解したとも言える。

 

体罰は、本当にいけない(と、教育する側が考える)ことを伝えるのには都合の良いツールだった。しかし、現代ではその方法なしに伝えていかねばならない。そもそも叩かれてもなぜ叱られたのかを理解していなければ意味がないし、自らを思い返してみても、体罰のほとんどは、やはりただの体罰でしかなかったのだ、と感じる。

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つまり、人間には体罰が有効ではない。ということは、犬にはもっと有効でない。

上で述べたように、体罰の有効性は怒りの度合いを示すことだけにある。人間の場合、重要なのは理屈だ。こんなにも怒りを示しているということが腑に落ちてこそ、記憶に残る。

 

犬には理屈が通用しない。なので、体罰をしても嫌なことをする人だ、ということしか刻まれない。だから、人間以上に褒めて伸ばすしかない。怒鳴っても意味がない。大変な根気が必要だ。

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いたずら顔のユク坊

このようなことをつらつらと自らに言い聞かせるように書いているのは、今日、散歩中に犬が大変わがままをやり、この阿呆犬の何を褒めてやれば良いのか!となったからである。それでも褒めてやった。負けないぞ、明日も褒めちぎってやろう。

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どのようなわがままも許してしまいたくなるポーズを決めるユク坊